やっぱり安楽死制度あったら最高だなって話。自分で対策も考えるけど。

父と同じタイミングで室内で車椅子に乗るようになった人の奥さんが私に言った。自分の足で動いて用を足せるのは幸せであると。

自分の体が不自由になって且つそれに耐えがたい気持ちで生きる可能性をほとんど考えたことがなかった。というのは自分で人生が本当に耐えられなくなれば死ぬつもりでいたからだ。無理なまま生きる時間は存在しないと思っていたのだ。私に困難があった時に私が無理だと思うか思わないかはわからないが、無理だった場合は終わらせればいいと思っていた。

そしてそれらの想像の中で困難にあった時の自分は自死ができる体を持っていた。否、体が動かなくなることを想像する機会はいくつもあったはずだが、私の場合、経済や精神的困難のほうがずっと近くにあると感じていたためそれらで先に死んでいるような気でいた。どこか自分の問題だと思っていなかった。

しかし当然人生ではあらゆることが起きるし想像しなかったことこそ起きる。私が無理になったとき健康な人がやるような方法で自死できる体を持っていなかったらどうすればいいだろう。スイスで安楽死するために今から英語を勉強するか。片手で弱い力でも死ねる方法を探しておくか。日本に安楽死制度が出来ることは夢物語なのだろうか。

体の不自由だけではない。私に近い困難である認知症になった場合も、終わらせるタイミングを計ることは難しいだろう。発症してすぐで様子をみようと思っているうちに不快にまみれても終わらせる術があることを忘れてしまっているかもしれない。

 

人々は死について考えたがらない。本能がそうさせているのだろう。しかし理性でもって本能を制し今考えることで、いつかは死ぬ人すなわち全ての人が後の苦しみを軽減できるはずだ。

 

また、このような言葉を読んで心身が随意でない者への侮辱だととらえる人もいるかもしれない。しかしそれは全く違う。大好きな父や友人をおとしめる気は全くない。私はここで自分自身について語っているのであってそれ以外の人の致し方について口を出す気はない。

かなり苦しく見える状況でも耐えて楽しみを見つける人も

いれば、他から見ればどうでもいいような事項で人生が無理になる人もいるだろう。状況は関係ない。本人が本気でどうしたいかだ。それを叶えられる世界であればいい。生きたい人は生き、死にたい人は死ねる世界。

それぞれ自分の体は、自分の命は、自分の尊厳は、全て自分のものである。それ以外の家族のものでも他人のものでも社会のものでもない。その人が愛する者達と相談などしたとしても最終的に決めるのは本人でなければいけない。人々にそういう感覚がなければ変えていかなければならない。決定権を奪われる者があってはならない。虐げられる者があってはならない。