安楽死において死にたい本人と死んで欲しくない家族のどちらの意見が尊重されるべきだろうか?
食肉において食べたい人間と殺されたくない生物のどちらの気持ちが尊重されるべきだろうか?
児童虐待において虐げたい親と逃れたい子のどちらの意見が尊重されるべきだろうか?
いじめにおいて殴りたい子と殴られたくない子のどちらの意見が尊重されるべきだろうか?
家族が嫌がれば夢を諦め苦痛に甘んじ自分を偽るべきだろうか?

悪い(そして強い)者がもし倫理を信じしかし且つ欲望を実行するならば黙って殴り黙って食べるしかないだろう。
倫理の枠内では彼らは言葉では負ける道理だ。倫理の外に出るか、黙って拳を振るうかしかない。

現実には彼らは欲望を示すことを論理だと思っているかもしれない。
強い者の意見を言い、これが無視されるのは不当だと主張する。

しかし。
「自分のことは自分で決める」「私の自由を奪うな」「苦痛を感じたくない、ハッピーでいたい」「こちらの立場も考えて欲しい」とどの両者も言うならば、守りたいものを守るために、区別するために、なんと言えばいいのか?

(自分のことをどうしたいかは国によって違うのでも年齢や性別、病気や障害によって違うのでもない。一人一人によって違うのだ。
社会や血筋の存続発展などくそくらえ。一人一人が虐げられない世界になりますように。)

食肉の話はビーガ二ズム信望者と雑食者の対立が根本ではない。いじめの話もいじめを止める者といじめっ子というのは根本的な対立ではない。
最も「当事者」(とは…?)な二者の対立にまで落とし込めたとして、この時守るべきほうを示す言葉はあるか。(ちなみにここではそうだが、悪い者は常に強く、守るべきほうは常に弱いのか?)